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本の紹介

 コーヒーブレイク 野田隆稔先生の史話集 


 はじめにー自己紹介をかねて

 韓国近代農業の父 禹長春(2006年6月11日)

 韓国文化を守った浅川伯教・巧兄弟(2006年9月2日)

 政略結婚の中で−李垠と李方子(2006年12月9日)





はじめにー自己紹介をかねて


 「日韓会談文書・全面公開を求める会」のHPに歴史読み物を書かせていただくことになりました野田隆稔です。3年前まで、名古屋市の高校で社会科を教えていました。そのとき、生徒達に歴史のエピソードを読み物風にプリントして配っていました。それらをまとめて『歴史への旅立ち』を自費出版しました。それが事務局の小竹さんの目にとまり、HPに読み物を書いてほしいという要請になったのだと思います。
 この会には錚々たる朝鮮史や現代韓国問題の研究者がおられますので、私のような専門的に韓国・朝鮮史を研究したことがない者が書くのはおこがましいのですが、素人の観点から見た読み物があってもいいのではないかと思い、浅学非才を省みず書かせていただくことにしました。閑話としてお読みください。文中敬称は略します。

 野田隆稔



田内千鶴子さんと共生園
 (2006年2月19日)
木浦共生園を訪ねて

 2002年12月27日、私は教員仲間数人と木浦(モッポ)の共生(コンセン)園を訪ねました。共生園は1928年、田内千鶴子の夫で、キリスト教伝道師(共生園のパンフに伝道師と書かれています)で「こじき大将」と呼ばれた尹致浩(ユン・チホ)が設立した育児養護施設です。尹致浩が亡くなったあと、千鶴子が共生園を護り続けました。共生園は海岸沿いの小高い丘の上にあり、黄海が一望できます。私たちを出迎えてくださったのは鄭愛羅(チョン・エラ)園長で、千鶴子の孫で、7代目の園長さんです。「現在の共生園には幼稚園児から、大学生まで102人の子どもたちが生活しています。昔のような戦災孤児はいなく、離婚・家庭内暴力・貧困等の理由で入園しています」と柔和な笑顔で語ってくださいました。

田内千鶴子、木浦へ

 私が田内千鶴子(韓国名尹鶴子=ユン・ハクジャ)の事を知ったのは1995年に作られた日韓合作映画『愛の黙示録』(監督金洙容=キム・スヨン)を見てでした。千鶴子を演じた石田えりの迫真の演技が印象に残っています。泣けたことも覚えています。

 千鶴子は1912年、父徳治、母はるの一人娘として、高知市に生まれました。1919年、7歳のとき父の仕事(朝鮮総督府木浦市庁の役人)の関係で木浦に移住します。その当時の木浦には約1万人近い日本人が住んでいました。彼らは支配する国の人間として、威張っていました。

 1919年は三・一運動が起きた年で、反日感情が高まっていたときでしたから、千鶴子一家も喜んで迎えられたわけではなかったと思われます。

 1876年、日朝修好条規が締結されてから、日本人の朝鮮進出が始まります。一攫千金を夢見て、あるいは朝鮮経営の先導者として朝鮮に渡ります。まず、南の方から日本人の定着が始まります。日本人の朝鮮進出に対して、『植民地朝鮮の日本人』(高崎宗司 岩波新書)がありますのでお読みください。

 千鶴子が住んだ木浦も南にあり、植民地になる以前から、貿易と建設(大工)に従事する日本人が住み着いていました。1900年にはレンガ造りの西洋式建物が作られ、そこが日本領事館になります。高台にあり、木浦の街と黄海が一望できます。現在は木浦出身の女性作家朴花城(パク・ファソン)の記念館になっています。木浦には日本風の家屋がいまだだに残っています。木浦は朝鮮における日本の拠点の一つでした。

 総督府の役人であったから、暮らしは豊かでした。千鶴子は木浦高等女学校を卒業するとミッションスクールで、朝鮮人生徒中心の貞明女学校で音楽教師として働きます。20歳のとき、父親がなくなったため、母はるは助産婦として家計を支えます。熱心なクリスチャンであった母親の影響で、千鶴子は教会の日曜学校でオルガンも弾いていました。平穏な日々でした。

尹致浩との出会い

 女学校の恩師高尾益太郎に「木浦の郊外で孤児院をやっている朝鮮人の青年がいる。手伝ってやって欲しい」と要請されます。これが彼女の人生を変えます。孤児院をやっていたのは尹致浩でした。致浩は背の低いやせた青年でしたが、キリスト教の伝道師としての使命感に燃えていました。

 1928年、致浩は橋の下で寒さに震えていた7人の子どもたちを家に連れてきて保護します。朝鮮では日本の支配によって土地をなくしたり、職を失って、貧困のために流浪する人たちがいました。そのため、親子離れ離れになり、孤児も多くいました。日本の収奪が如何に激しかったかを物語るものです。致浩はそういう彼らを引き取り共生園を始めたのでした。千鶴子が訪れたときの共生園はバラック建てで、30畳ほどの部屋が一つあるだけで、そこに数十人の子どもたちが生活していました。千鶴子はその日から、子どもたちの世話をし始めます。

 千鶴子の献身的な活動は子どもたちにとっても、致浩にとってもなくてはならない存在になります。二人の間には愛と信頼が芽生えます。 当時の朝鮮における日本社会において、朝鮮人への差別と偏見はすざましく、千鶴子の結婚に周囲は猛反対します。それを押し切って、二人は1938年、二人は結婚します。千鶴子は26歳でした。子どもたちに基本的な生活習慣を教え、教育をし、建物を作り直すように総督府に陳情したり、八面六臂の大活躍でした。ガス・電気・オンドルつきの建物を建築するまでにこぎつけました。二人の間には清美(チョンミ)、基(キ)が生まれますが、二人の子どもは子どもたちと分け隔てなく園のなかで育てられました。

 1945年8月15日、日本が敗戦し、朝鮮は解放されます。朝鮮にいた日本人は引き上げて生きます。千鶴子は朝鮮にとどまりたいと願いましたが、許されませんでした。千鶴子は夫や園の子どもたちに心を残して、母(父は千鶴子20歳のときに死亡)と高知へ帰ります。千鶴子は第三子を妊娠していました。

 高知に帰っても、夫致浩と共生園の子どもたちのことが頭から離れられない千鶴子は1947年、当時は国交が回復していませんでしたから密航して釜山(プサン)に入り、木浦に帰ります。それを機に、尹鶴子(ユン・ハクジャ)と名乗ります。
しかし、韓国名を名乗っても千鶴子が日本人であることを木浦の人は知っています。憎い日本人を許せない木浦の人々は千鶴子を追放しようとします。刀を投げかけられたこともあったといいます。「オモニはイルボンであっても、僕たちのオモニだ」と言って、人々の前に立ちはだかりました。子どもたちの純粋な姿に、人々は何もせずに去って行きます。千鶴子を護ったのは子どもたちでした。

 致浩と千鶴子の活動は次第に理解され、園は軌道にのって行きます。未来に光明が見え始めました。

 (植民地時代は朝鮮と表記しました。以後、韓国・朝鮮と表記します)

致浩、行方不明になる

 1950年、二人の運命を狂わせる朝鮮戦争(韓国では「韓国動乱」といいます)が起きます。朝鮮軍は電撃的に進軍し、木浦を支配します。朝鮮軍はかって日本に協力した人々を人民裁判にかけ始めます。千鶴子も致浩も裁判にかけられます。千鶴子は「日本がこの国にしてきたことを思えば処刑されても当然だ」と思ったそうです。一人の韓国人が「ユン夫婦は親のない子どもたちのために、自分の食べるものも、着るものも惜しんで尽くしている立派な人たちです」と弁護してくれます。朝鮮軍は致浩と千鶴子の処刑をあきらめます。致浩の人望が厚いのを見て、致浩を村の人民委員長にします。

 国連軍(実際は米軍ですが)が参加し、韓国軍が巻き返しを図ると朝鮮軍は木浦から去っていきます。しかし、致浩は朝鮮軍支配下で人民委員を務めていたので、逮捕されます。村の有力者の尽力で、3ヵ月後に釈放されます。1951年1月、致浩は園児たちの食料を求めて、光州(クワンジュ)に行きます。ここで、消息を絶ちます。そのときのことを、長男の尹基(ユン・キ、日本名田内基)は『こころの家族』NO.203号(『こころの家族』は、基が建設した在日韓国・朝鮮人の老人ホーム「故郷の家」の機関紙です)で、「光州中央教会の夜の礼拝に出席し、その夜泊まった旅館に、夜中3人の青年が来て連れていった」と書いています。朝鮮戦争が韓国が国連軍を投入し、巻き返しを図り、朝鮮領域を支配し、それに対して、中国軍が義勇兵を送り込み、38度線近くに押し戻す混乱の中、致浩の行方は絶えてしまいます。致浩はキリスト教社会主義者であったため、朝鮮のスパイ容疑で逮捕されたのではないか、あるいは朝鮮軍によって拉致されたのではないかといわれていますが、真相は不明です。

 「母は戦争の最中、あらゆる苦労をしながら、韓国内を捜し求めましたが、確実な証拠を得ることもなかった。いまだに生死がわからない。私たち4人兄弟は父の屍も見てない」と尹基は書いています。

 1953年、停戦になります。共生園の孤児たちは、この戦争で500人までに膨れ上がっていました。周囲の人たちは「4人の子どもを連れて日本へ帰りなさい」と勧めたが、千鶴子は「夫の始めた仕事を絶やしてはならない」と木浦にとどまります。

 戦争後の経済疲弊の中で、園を維持していくことは並大抵の苦労ではありませんでした。それは夫への愛と子どもたちへの愛でした。

 千鶴子は「韓国孤児の母」と呼ばれ、その活動が評価され、1963年、「大韓民国文化勲章国民賞」を授与されます。
 1964年には、日本に招待され、一時帰国します。1965年には「木浦市民賞」を受けます。この年、日韓国交が回復します。お隣の国と国交を回復するのに、20年かかっています。その間どんな交渉が行われたか、韓国では文章公開がされましたが、日本ではまだ完全ではありません。早く公開されて、真実を知りたいものです。また、朝鮮とは未だ国交が回復されていません。60年間も国交が回復されないというのは物凄く異常なことです。韓国と同時に朝鮮との国交も回復されていたら、あるいは悲劇的な拉致事件も起きなかったかもしれません。そう思うと、戦後の日朝関係について、日本はきちんとそのありようを総括をしなければならないと思います。

 千鶴子の活動は日本にも伝えられ、1967年には、日本政府から「海外での社会福祉に貢献した日本人」として、藍綬褒章を授与されます。

 千鶴子は孤児たちが生きていくためには手に職をつけることが必要だと考え、職業学校設立のために奔走します。
しかし、長年の無理がたたって体調を崩し、入院します。千鶴子は病に倒れながらも「私のために高い治療費を使うのはやめて欲しい。そのお金を園のために使って欲しい」といい続けました。病状は悪化し、意識がなくなります。子どもたちは「園で死なせてあげたい」と共生園に連れて帰ります。

 1968年10月31日、多くの人達の祈りも虚しく、57歳の生を閉じました。その日は千鶴子の誕生日でした。
木浦市は彼女の死を悼み、市民葬としました。卒園生たちはもとより、韓国全土から3万人の人々が参列し涙したといいます。新聞は「木浦は泣いた」と報じました。

故郷の家

 千鶴子が亡くなったあと、共生園は長女清美(チョンミ)が引き継ぎ、さらに長男の基(キ)が引き継ぎます。基は千鶴子が死の床で「梅干が食べたい」と言った母の忘れがたい故郷への思いは、在日の人々にもあるに違いないと思い、日本に帰国し、大阪の堺市でキムチが食べられる老人ホーム「故郷の家」を建設し、現在も活動中です。
日本の大学で福祉を勉強し、アメリカに留学していた基の娘・緑が叔母の後をついで、共生園の園長にあります。緑

 25歳のときでした。くりた陸の漫画『海を渡る風』(講談社刊)は緑のことを描います。緑は現在は園長を鄭愛羅に譲り、共生園をサポートする仕事と「故郷の家」などの福祉の仕事に携わっています。

 「故郷の家」の機関紙『こころの家族』に「この国に住む外国人が日本はいい国だといえる社会づくりを目指します」というスローガンが書かれています。私もそういう優しい日本にしていきたいと思っています。その優しさは前文と憲法9条の精神だと思っています。

 田内千鶴子以外にも、韓国で孤児のために働いた日本人がいます。その人は望月カズ(1927〜1983)で「38度線のマリア」と呼ばれています。彼女のこともいつか書きたいと思っています。

 千鶴子や望月カズ、マザー=テレサ以外にも、世界中で戦災孤児を救う涙ぐましい活動をしている多くの人たちがいる一方で、「平和のため」と称して、戦争を行い、戦災孤児たちを作り出し、それを恥じない人たちがいることも忘れてはなりません。

 私は千鶴子のことを書いていて、千鶴子が苦しい中を、頑張り通せたのは夫と子どもたちの愛だと書きましたが、もちろんそれもありますが、敬虔なクリスチャンであった母親に育てられ、民族を超えて、人間はみな同じだという人類愛を持っていたのではないかと思います。カントのいう「人はどこにおいても人として尊重されねばならない」(『永久平和のために』)という普遍的価値を自然に身につけていたのではないかと思っています。

 
参考資料

・清水和子『20世紀のすてきな女性たち』(8)所収「田内千鶴子」

・村中李衣『日韓史に記憶される人びと』岩崎書店HP

・『こころの家族』故郷の家発刊

・高崎宗司『植民地朝鮮の日本人』岩波新書


※野田隆稔さん著作『歴史への旅立ち−授業を豊かにする史話集』は、2000年、名古屋プリントより発刊されました。1500円。




韓国近代農業の父 禹長春
 (2006年6月11日)

 2000年暮、始めて韓国を訪れる妻を案内するためにソウルを訪ねました。タクシーで景福宮など主要な観光地を回りました。そのとき、タクシーのドライバーに禹長春(ウジャンチュン)を知っていますかと尋ねました。

 禹長春について、私はこの旅に来る前に角田房子の『わが祖国』を読んで知ったばかりでした。その本の解説の中に「韓国の人々にとっては、韓国近代農業の恩人としての禹長春の存在は、小学生でも知っている歴史的事実である」と書いてありましので、それを確かめるために質問したのでした。彼は「学校で習ったから知っている。韓国人ならみんな知っている」と答えてくれました。
 
閔妃暗殺

 禹長春の数奇な生涯は閔妃(ミンビ)暗殺という歴史的事件から始まったといっても大げさではありません。

 1894年、「斥洋斥倭」を唱えて、東学党が反乱を起こします。甲午農民戦争です。これを押さえるために出兵した日清両国が激突し、日清戦争が勃発します。日清戦争は日本の勝利で終わりますが、1895年、日本は三国干渉により遼東半島を清に返還します。これを契機に日本の権威は失墜し、朝鮮における支配力が後退します。高宗と閔妃は急速にロシアに接近し、日本を牽制するようになります。

 1895年7月朴泳孝(パクヨンヒョ)が閔妃暗殺を企てたという容疑を受けて日本へ亡命します。朴泳孝は甲申政変で失敗し、金玉均(キムオクキュン)と日本に亡命していますから、二度目の亡命になります。これ以後、親露派の勢力が一気に強まります。
 9月、三浦梧楼(陸軍中将)が日本公使に着任します。彼は閔妃を排除することによって日本の後退を防ぐことができるとして、閔妃殺害を企てます。

 1895年10月7日夜から8日早朝にかけて、日本守備隊と大陸浪人らは王宮を襲います。

 彼らは王宮に侵入して宮内府大臣らを殺害したうえ、王妃の寝室に侵入します。閔妃の顔を知らなかった暗殺団は三人の女性を殺害します。その中の一人が閔妃でした。死体は王宮の庭で焼かれ、遺骨はその近くに埋められたとも、池に捨てたとも言われています。これを乙未事変といいます。

 三浦梧楼は「朝鮮軍の不平分子が大院君をかついでクーデタを決行し、王妃を暗殺した」と発表する計画で、無理に大院君を担ぎ出し、朝鮮の訓練隊を参加させていました。彼らは王宮の警備に回り、直接暗殺には参加していません。朝鮮の訓練隊の第二大隊長が禹範善(ウポムソン)でした。

 三浦梧楼の意思に反して、この事件は世界中の激しい非難を浴びました。

 日本政府は三浦梧楼の単独犯として、日本政府の介入を否定しましたが、三浦の行為は日本政府の意志にそうものでした。犯人達は治外法権に守られて、朝鮮で裁かれることなく、広島の軍法会議で裁かれました。しかし、証拠不十分で全員無罪となりました。それどころか、政府関係者は以後、出世していきます。三浦梧楼は学習院院長になります。

 閔妃暗殺犯として、三人の朝鮮人が逮捕され死刑になります。三人は冤罪以外のなにものでもありませんでした。 

 禹範善ら訓練隊の幹部は日本へ亡命せざるを得ませんでした。

 ソウルの景福宮の片隅(閔妃が殺害された場所といわれるところ)に「明成(ミョンソン)皇后遭難の地」と書かれた碑があります。その碑の反対側に「暴徒に斬られ、血まみれになった閔妃の姿」と「暴徒によって焼かれた閔妃の遺体」を描いた二枚の板絵があります。日本人の姿が日本刀に着物と奇異ですが、迫力のある絵です。日本人観光客がめったに行かないところで、韓国人ガイドもあんまり案内しないようです。
 
日本での禹範善

 禹範善ら訓練隊の幹部は釜山から日本に亡命しました。1895年の末のことでした。同じ亡命者でも、甲申事変に失敗した金玉均は小笠原の孤島に幽閉されたり、北海度に移されたり冷遇されますが、禹範善は東京に住み、暮らしに不自由しないだけの経済的援助が与えらました。この違いは何なのでしょうか、一度調べてみたいと思っています。

 禹範善は1897(明治30)年、酒井ナカと結婚します。二人がどこでどのように知り合ったのか全くわかっていません。禹範善は1857年生まれですから40歳でした。一方ナカは1872年生まれですから、25歳です。当時の25歳は結婚適齢期をはるかに越えていましたので、ナカは15歳の歳の差や相手が朝鮮人であるというハンディを超えて結婚したのかもしれません。

 禹範善には日本国籍がなかったことと朝鮮に妻子がいたため、二人は正式に入籍することができませんでした。
 
 1898年4月15日、二人の間に長男長春が生まれます。生誕日については4月8日という説もあります。長春については範善が「私生児認知届」を出すことで、禹姓を名乗ることができたし、ナカの子どもであることも認知されました。

 長春が生まれたあと、一家は広島県の呉に移住します。ここで範善は日本名北野一平を名乗り、学塾を開いていました。

 李朝の高宗と閔妃夫妻に仕え、忠君愛国思想に燃えていた高永根(コヨングン)が1899年、政治犯として国を追われ、日本に亡命してきます。高は日本に来て、高宗と閔妃の恩を返すのは国母閔妃暗殺に加担した範善を殺すことだと考え、呉に来て範善に近寄ります。

 範善の周囲の人は高に不信感を持ち、範善に近寄らない方がいいと忠告しますが、範善は高を庇護します。

 1903年11月24日、高は「お世話になった御礼をしたい」と範善を誘い出し、従者とともに殺害します。残忍な殺し方で、高の恨みの深さが思い知れます。

 高は1909年、朝鮮に帰り、高宗に仕えました。1919年、高宗死後、参奉(王の墓守りの官名)に任ぜられ、高宗夫妻の墓を守って生涯を終えました。

 範善の墓は呉市に建てられた後、東京青山墓地に分骨されますが、支援者の須永元が栃木県佐野市の妙顕寺に移されます。須永元は朝鮮からの亡命者金玉均や朴泳孝らを支援した人です。長春は小春と結婚するとき、須永家と養子縁組をし、須永姓を名乗っています。
 
禹長春の生い立ち

 範善が暗殺されたとき、長春は6歳でした。ナカは二人目の子どもを身篭っていました。翌年、ナカは次男を産みます。乳飲み子と小学1年生の二人の子を抱えたナカの生活は苦しかったので、長春は範善とナカの仲人を務めた住職が経営する孤児院に預けられました。その孤児院は東京にあり、親子は離れ離れになりましたが、ナカは2〜3年で、長春を引き取ります。呉の母の元に長春は戻ることができました。次男はナカの遠縁に当たる家の養子になりますが、成長するまでナカが育てていました。

 1910年、大韓帝国は日本に併合されます。いわゆる日韓併合です。寺内正毅が「小早川 加藤小西が 世にあらば 今宵の月をいかに見るらむ」と歌い、日本中が沸き立つ中で、「地図の上 朝鮮国にくろぐろと 墨をぬりつつ 秋風を聴く」と歌い、朝鮮の人々に思いを寄せた人がいました。石川啄木です。高校の日本史の時間にこれを習ったとき、石川啄木のすごさに感動したことを思い出します。教師時代、この二つを対比して教えました。

 朝鮮に帰っていた朴泳孝は朝鮮総督府から長春の養育費を出させます。以後、留学生として学費を受け取ることができるようになりました。

 1916年、長春は呉中学校を卒業し、東京帝国大学農科大学実科へ進学します。1919年、長春が卒業する直前の2月8日、神田の朝鮮キリスト教青年会館では、朝鮮人留学生が「我らは、ここに我が朝鮮の独立と朝鮮人民の自由民たることを宣言する」という有名な独立宣言を発表します。これが三・一運動の口火になります。禹長春にとっても関心があったと思われますが、彼が行動に参加した記録は残っていません。彼の内心はどう思っていたかわかりませんが、政治的には無関心を装っていたようです。

 学校を卒業した長春は農林省西ヶ原農事試験所に就職します。

 1923(大正12)年9月1日には関東大震災が起き、「朝鮮人が襲ってくる」というデマが流れ、多くの無辜の朝鮮人が殺されます。この事件を禹長春はどんな気持ちで眺めていたのでしょう。こころ穏やかではなかったはずです。

 1924年、長春は渡辺小春と結婚します。長春が母と弟の三人で住んでいた本郷の隣の家に富田せつという未亡人が住んでいました。長春はその息子の家庭教師をしていました。長春の誠実な正確に魅かれたせつは小学校教師をしていた妹の小春(戸籍名コハル)を妻にと紹介します。姉せつを除いて、渡辺家はこの結婚に反対しますが、小春は姉の支援のもとに結婚します。長春26歳、小春22歳でした。このときに、須永家に夫婦養子となり、須永姓を名乗るようになりますが、長春は禹姓を名乗り続けます。

 1925年、長女が生まれます。そして、長春は埼玉県の鴻巣試験地に転勤します。ここで朝顔やゲノム(染色体のグループ数)研究に没頭します。その研究の成果が認められて、1936(昭和11)年、東京帝国大学から農学博士の学位を授与されます。博士になっても長春は高等官技師になれず、技手のままでした。長春が戸籍上は日本人でしたが、純粋の日本人でなかったことが、つまり差別があったのではないかと想像されます。

 1937年、長春は農林省をやめ、タキイ種苗株式会社の長岡試験農場(現長岡京市)長に就任します。タキイ農場には朝鮮人の青年たちが研究に来ていました。長春は彼らに特別講義をしていました。
1945年8月15日、日本は無条件降伏を受け入れます。戦争が終わったのです。在日朝鮮人の帰還が始まりますが、長春は帰る気はありませんでした。

 日本国籍があり、6人の子ども(4女2男)がおり、朝鮮には全く生活基盤がありませんから、帰ろうにも帰れなかったと思われます。
 
禹長春韓国に

 1945年9月、長春はタキイを退職します。タキイの朝鮮にある土地をめぐって、社長の依頼を断ったことが理由だとされています。長春は1950年渡韓するまでの5年間を農民として過ごします。

 朝鮮は日本の支配から独立しますが、実質的には南北に分断されます。1948年、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国が成立します。独立後、混乱続き、農村は種子が不足し、農業が復興しません。早急に自前の種子を作らねばなりませんでした。タキイにいて、長春と面識のあった金鐘(キムジョン)が「今の韓国で種子の問題を解決してくれるのは禹長春博士以外にない」と長春を韓国に招くことを提案します。こうして「禹長春博士還国推進委員会」が設立されます。委員会は長春に書状で、韓国農村の窮状を訴えます。

 長春は韓国行きを承諾します。長春がどこかの研究所で研究に従事していたら、承諾したのだろうかという疑問が湧きますが、長春は「父の国のために働きたい」という思いを若い頃から持っていたように思えますから、研究所の要職についていても、渡韓しただろうというのが私の推測です。

 長春は韓国へ単身赴任します。当時、韓国との国交はありませんから、長春は韓国から戸籍謄本を取り寄せ、「韓国人だから帰る権利がある」といって、送還船「新興丸」に乗船し、釜山に帰還しました。1950年3月8日のことでした。

 歓迎式の式場で長春は「私はこれまで母の国日本のために、日本人に負けないほど努力してきました。しかしこれからは父の国である韓国のために働く覚悟であります」と語りました。彼が研究し、技師達を養成し、様々な種子の品種改良を行った研究所は釜山の北、温泉地で有名な東?(トンネ)にあります。釜山へ行ったとき、「禹長春遺跡地」を見に行こうとしたのですが、時間がなく行けませんでした。

 長春は子どもの結婚式などで、時々日本に帰ってきていましたが、母ナカ危篤の電報を受け取りますが、帰国の許可はおりませんでした。大統領の李承晩(イスンマン)が「禹長春を日本へ還したら、二度と韓国に戻ってこないのではないか」と懸念し、出国を拒否したと伝えられています。1953年8月、母ナカは長春の弟の家でなくなります。母の死を聞いた長春は慟哭し、その激しさに所員は声をかけられなかったと伝えられています。

 1959年6月、長春はソウルのメディカル・センターに入院し、手術を受けますが、回復せず重態になります。日本から、小春が呼び寄せられます。

 長春の命が燃え尽きようとしているとき、韓国政府は「大韓民国文化褒章」を授与します。長春は「ありがたい、祖国は私をわかってくれた」と涙を流したと伝えられています。

 小春の必死の看病も虚しく、8月10日、小春にみとられながら、62歳の命を閉じました。
 
参考文献:『閔妃暗殺』『わが祖国』角田房子 ともに新潮社、『朝鮮史』梶村秀樹 講談社、『李朝滅亡』片野次雄 新潮社、『小説 朝鮮総督府』柳州鉉(ユチュヒョン)徳間書店。 
 



韓国文化を守った浅川伯教・巧兄弟
(2006年9月2日)

 教師をやっていますと、夏休みの宿題に出してある読書感想文を読むという難行苦行があります。大体の生徒は義務として書いてくるので、読んでいても面白くありません。しかし、中には優れた作品もあります。そんな作品にであったとき、「棚から牡丹餅」のようなうれしい気分になります。そんな一つに、『白磁の人』(江宮隆之著)の感想文がありました。生徒の作文が優れていたため、触発されて、私も『白磁の人』を読み、淺川巧の存在に魅かれました。
 
生い立ち

 淺川伯教(のりたか)は1884(明治17)年、山梨県北巨摩郡甲村五丁田(平成の大合併で北杜市)に、父如作、母けいの間の第一子として生まれました。その7年後の1891(明治24)年1月、巧は生まれました。父如作は巧が生まれる半年前に、31歳の若さで病死しますが、巧には7歳上の兄伯教と4歳上の姉栄がいます。母けいが女手一つで家を守り、3人の子どもたちを育てました。
彼らが生まれた巨摩郡は甲斐駒(馬)の産地であったところから、つけられたといわれていますが、「こま」とつく地名は朝鮮半島の人々(主に高句麗から来た人)が住み着いた場所だといわれています。高麗、駒、狛の付く地名はそれに当たるといわれています。
母方の祖父千野真道が「巨摩郡は高麗人のすんだところで巨麻と呼ばれた。我々には遠い祖先の血が流れている。高麗人の血が」と語ったことが『白磁の人』の中に書かれていますが、巨摩は高麗人の住みついたところと考えてもいいかもしれません。
淺川家はこの地域の素封家で、農業と紺屋をやっていました。如作の父(兄弟にとっては祖父)は松尾芭蕉の門下に連なっている教養人で、母けいの父(祖父)は医師であり神官であるという当時としては最高のインテリでした。両祖父は地域の人のために尽くし、高潔な人格であったと言われています。こんな祖父を父代わりに兄弟は育ちましたから、その資質が兄弟に受け継がれたのかもしれません。

 伯教は1901年、山梨県立師範学校を受験しますが、体力不足で不合格となります。尋常高等小学校の代用教員をしながら、再度師範学校を受験し合格します。

 師範学校に入学すると、キリスト教に入信します。母方の祖父千野真道が神官であったことからすれば、神道と正反対なキリスト教に帰依することは奇異な感じがします。伯教の影響を受けてやがて巧も入信します。キリスト教の影響は彼ら兄弟が差別なく朝鮮の人々に接することに現れています。

 1906年、師範を出た伯教は小学校の教師としての生活を始めます。1910年、この年は日韓併合があった年ですし、大逆事件が起きた年でもあります。日本が帝国主義に大きく踏み込んだ年でしたが、一方では『白樺』が創刊され、理想主義運動が動き出し、大正デモクラシーの胎動につながる年でもありました。伯教は『白樺』を購読し、白樺派に近づいていきます。1912年、ロダンに傾倒していた伯教は彫刻を習い始めます。

 一方、巧は1906年、山梨県立龍王農林学校に入学し、甲府市郊外で、教職に就いた兄の伯教と同居を始めます。伯教の影響を受けてキリスト教や白樺派に傾倒していきます。

 1909年、巧は山梨龍王農林学校を卒業し、秋田県大館営林署に造林技師として就職します。
 

兄弟、朝鮮に渡る 

 1913年、伯教は朝鮮の美術品の研究をしたいため、母けいと共に朝鮮に渡ります。京城府南大門公立尋常小学校に赴任します。小学校の教員ですから、すべての学科を教えたのですが、特に自分が得意な図画工作に力を入れていました。学校は幾つか変わりますが、彼の教え子の中に、作曲家の古賀政男がいました。

 その年、伯教は三枝たか代と結婚します。たか代は梨花女子専門学校と淑明女学校で英語の講師をして、生活を支えます。
伯教は教師をしながら、彫刻の制作(1920年、『木履の人』が帝展=現在の日展に入選します)に当たる一方、その当時、見向きもされなかった朝鮮白磁に注目し、研究を始めます。

 兄を敬慕し、その影響を強く受けている巧も朝鮮行を決意します。1914年、大館の営林署を辞め、朝鮮に渡ります。伯教や巧のような資格を持っている者は専門分野の職にすぐ就けます。巧は5月に朝鮮に渡り、7月には朝鮮総督府農商工部山林課に就職し、朝鮮国内の植林業務に従事します。

 巧が山林課に就職した当時の朝鮮の山は乱伐され、はげ山状態に荒れていました。清やロシアによって乱伐されたといわれていますが、日本がそれに輪をかけました。1908年、統監府の管理下にある韓国政府に「森林法」を公布させ、持ち主がわからない山を「無主公山」として国有化させ、それを日韓併合後総督府のものにし、日本人や親日派の朝鮮人地主に分け与え、軍用材の供給地にして山林を乱伐したのです。これは林野の入会権を農民から奪い、農民を疲弊に追い込むことになりました。

 日韓併合後の1910年、総督府は土地調査事業を行い、朝鮮の農民から土地を収奪していきますが、そのモデルは森林法にあったといえます。

 巧は朝鮮に住むためには朝鮮語を覚えることが必要だと考え、山林課の朝鮮人雇員から朝鮮語を習います。3ヶ月でほぼものにしたといわれています。

 1916年、巧は農林学校時代の親友淺川政歳の姉みつ江と結婚します。

 『白磁の人』では朝田政歳妹みつえとなっています。年齢も3歳下になっています。『白磁の人』と『朝鮮の土となった日本人』に食い違いがあるのは気になりますが、ここでは指摘するだけに留めて置きます。本文は高崎説で書きました。

 その年、伯教を尋ねて、柳宗悦が京城に来ます。巧は柳に始めて会いますが、二人は意気投合します。

 柳宗悦(むねよし1889〜1961)は白樺派で、民芸運動を起こした人と知られていますが、高校の日本史で、「柳は三.一独立運動で『反抗するも彼らより一層愚かなのは圧迫する吾々である』と、日本の朝鮮支配を批判した数少ない日本人だ。京城において道路拡張のために景福宮(キョンポックン)の光化門(クァンファムン)が取り壊されようとしたとき、これに反対し、移築保存させた人だ」ということを習いました。光化門がなんであるかさえ解りませんでしたが、良心的な日本人がいるものだと思ったことを覚えています。柳の朝鮮文化保護に影響を与えたのが淺川兄弟だったのです。

 1917年、巧とみつ江の間に、長女園絵が生まれました。

 巧は白磁・青磁のみならず朝鮮文化の研究をしながら、本業の造林の方にも力を入れ、山野を歩き回ります。

 巧が発明した養苗法に「露天埋蔵法」というのがあります。採集したその山の中に自然の状態をつくって埋め、翌年の春、種子を掘り出して苗床に蒔くというもので、当時としては世界的な発明であったといわれます。巧はそれを幾つかの論文に残しています。巧は朝鮮文化の保護者として名を残していますが、このように科学者としても業績を残しています。

 順風満帆の巧の人生に不幸が見舞います。妻のみつ江は園絵を生んだ後、体調がすぐれず、甲府で療養していましたが、1921年、薬石効なく亡くなります。葬儀のあと、園絵を淺川政歳に預けて、朝鮮へ一人で戻りました。
巧は失意の中、山の植林に力をいれながらも、柳が提案した「朝鮮民族美術館」の設立の準備に当たります。仕事の面では充実していたけれど、精神的には一番辛いときでした。

 伯教は学校を辞め、朝鮮陶磁の窯場の調査に全力を尽くします。彼の研究で、朝鮮陶磁の歴史が明らかになっていきます。さらに、高麗青磁を復活させるために、朝鮮人の陶工たちを援助します。伯教の指導のもとにで、高麗青磁を復活させた人は池順鐸(チスンタク)で、韓国陶磁器界の巨匠といわれるようになります。

 韓国へ行くと、青磁が土産物として売られていますが、その基礎を伯教が作ったといっても過言ではありません。
 
再婚そして急死

 一人暮らしの巧に、再婚話を持ってきたのは柳でした。巧は再婚することはみつ江に申し訳ないという思いがありましたが、柳の「園絵さんをいつまで、預けておくのか、再婚して一緒に暮らしたらどうか」という説得に、子煩悩な巧は折れます。

 柳が持ってきた再婚の相手は京都の陶芸家河井寛次郎の妻の従兄弟に当たる大北咲(さく)子(『白磁の人』では咲、『朝鮮の土となった日本人』では咲子となっています)は巧より3歳下でした。

 1923年、巧は大北咲子と京都で結婚し、園絵を連れて、京城に戻ります。園絵も咲子になれて、温かい家庭を取り戻します。しかし、またもや家庭に不幸が見舞います。咲子との間に生まれた次女が生後、数時間で亡くなったことです。

 巧は伯教が焼いてくれた小さな白磁の鉢に遺骸を入れ、白木の墓標に『天使の人形の墓』 と記し埋葬しました。

 次女の死産という痛手を抱えながら、巧は林業試験所の仕事をし、休日を利用して、陶磁器の研究を続けると共に、あらたに木工芸の美に魅かれ研究を始めます。巧は研究をするとき、チョゴリ・パジを着用し、達者な朝鮮語をしゃべりましたから、彼に接した朝鮮人の中には巧が日本人であることを知らない人もいました。

 支配民族として、朝鮮人を低く見ていた日本人でありながら、朝鮮人の視線で接する巧は朝鮮の人々の信頼を集めます。

 陶磁器の研究は『朝鮮陶磁名考』に、木工の研究は『朝鮮の膳』となって結実します。

 巧は生まれてから病気らしい病気はしたことがなく、健康に自信を持っていました。仕事、研究に睡眠時間を削って無理をします。

 1931(昭和6)年、その無理がたたって、風邪を引きます。「風邪くらいで、休むわけにはいかない」と一日休んだだけで林業試験場に出勤します。雨の中を歩き回り、風邪をこじらせてしまい、40度近い熱をだし倒れます。3月27日のことでした。医者から「急性肺炎」と診断されます。咲子の止めるのも聞かず、高熱をおして柳から依頼された『朝鮮茶碗』の原稿を書きあげます。これが絶筆になります。
 

巧の葬儀

 4月1日、巧は危篤状態に陥ります。電報で柳や淺川政歳に知らされます。二人は、すぐに日本をたちますが、今のように飛行機で東京から1時間半という時代ではありません。下関に出て、関釜連絡線に乗り、鉄道で釜山から京城に向かうという経路です。東京から3日間かかります。二人は生きていてくれと祈りながら、京城に向かいますが、柳は大邱(テグ)の近くで「タクミフタヒゴゴロクジシシ」という電報を受け取りました。

 巧の症状は「峠を越えた」という医師の診断があり、病床に詰め掛けた人たちがほぉとした直後に急変します。意識が混濁する中、「責任がある・・・」と繰り返して叫んだといわれています。「何についての責任なのか」、試験場関係者は「未完の仕事」だと思ったかもしれないし、美術関係者は「巧の研究」かもしれないと思ったかもしれない。臨終の席にいた安部能成(ヨシシゲ。思想家、教育者。戦後の幣原内閣で文部大臣を務め「教育基本法の骨子」を作った)は「朝鮮とこの国の人たちへの責任だと感じた」と書いています。
5時37分、巧は息を引き取ります。40歳の若さでの夭逝でした。その場に居合わせた人たちは号泣したと言われています。巧にとっても、彼を取り巻く人たちにとっても無念の死でした。

 葬儀は4日、雨の中を、キリスト教の様式で行われました。柳たちの弔辞が読まれ、巧みの好きな賛美歌409番「やまじこえて ひとりゆけど 主の手にすがる 見はやすけし」が歌われました。巧は白いチョゴリ・パジを着て、重さ150キロの二重の棺に納められました。出棺のとき、巧の死を聞きつけた多くの朝鮮の人たちが見守りました。

 「彼の死が近く村々に知らされた時、人々は、群れをなして別れを告げに集まった。横たわる彼の亡躯を見て、慟哭した鮮人(侮蔑語ですが、原文通りにしました)がどんなに多かった事か。日鮮の反目が暗く流れてゐる朝鮮の現状では見られない場面であった。棺は申し出によって悉く鮮人に担がれて、清涼里から里門里の丘へと運ばれた。余りにも申し出の人が多く応じられない程であった。その日は激しい雨であった。途中の村人から棺を止めて祭をしたいとせがまれたのもその時である。彼は彼の愛した朝鮮服を着たまま、鮮人の共同墓地に葬られた。」(柳宗悦『淺川のこと』)という、柳の文にそのときの様子が見事に描かれています。
 
浅川家の戦後

 1945年8月15日、日本は戦争に敗れます。もっと早く降伏するべきでした。その責任を問うことも我々はしなければと思います。

 多くの日本人が、朝鮮人から仕返しを受けるのではないかと恐れて、先を争って帰りますが、咲子と園絵、伯教の家族は最後の引き上げ船が出る12月まで留まっていました。

 伯教はアメリカ軍の要請もあって、朝鮮に留まり、研究を続けます。1946年11月、帰国しますが、私蔵の工芸品と陶磁器は民族博物館に寄贈しています。蒐集品を必死になって日本に持ち帰った人々に比べて、爽やかな態度です。

 日本に帰った伯教は千葉市に住み、原稿を書いたり、講演をしたりして、生活します。1964年1月、膿胸で亡くなり、80歳の天寿を全うします。

 園絵は柳が設立した日本民芸館に勤め、柳宗悦を助け、多くの本を編集します。柳の略年譜や日本民藝館の略年譜を作成します。

 1976年10月、咲子が82歳の天寿を全うします。その一ヶ月後、母の後を追うように園絵も亡くなります。60歳でした。二人の墓は世田谷区の東北寺にある伯教夫婦の墓に合葬されました。また、山梨県北杜市五丁田の淺川家の菩提寺川柳時の墓地にも埋葬されました。墓碑には巧の功績が「・・・全く知と愛そのものである。一家をあげて民芸にささぐ」と書かれています。

 巧の墓は1942年、里門里の墓地が道路新設で壊されることになり、京城の郊外にある忘憂里(マンウーリ)に移されることになりました。巧の墓は咲子・園絵が帰国したため、手入れをする人がいなくなり荒れるままに放置されました。

 1964年、かって朝鮮に住んで活躍していた画家の加藤松林人が韓国に招かれます。加藤は韓国を訪れる前に、咲子を尋ねます。そこで、「主人の墓を見てきて欲しい」と頼まれます。加藤は林業試験場を訪れ、巧と同僚であった金二万(キムイマン)と忘憂里にある巧の墓を探しますが、見つかりませんでした。今度は巧一家と親しかった方鐘源(パンジョンオン)なども加わり、10人ぐらいで探し、見つけることができました。加藤らは荒れた墓を修復します。

 1966年、林業試験場職員一同の名によって「淺川巧功徳之墓」が建立されます。戦後21年、巧が亡くなって35年、試験場に勤務する大部分の人は巧を知りませんが、彼の功績、特に朝鮮の人々に尽くした功績を称えたのです。咲子は1968年、その墓に参ります。

 1995年の夏、私は淺川巧の墓が忘憂里にあることを知り、訪れました。枯れかかっていましたが、花束が置かれていました。誰が置いていったのでしょうか。今でも彼のことを忘れない人がいるのを知り、感激した覚えがあります。

 「憂いを忘れる里」、何といい名前でしょうか。巧はこの地で憂いを忘れて眠っていることでしょう。私も憂いを忘れたいのですが、昨今の日韓関係や日本の軍国主義化を考えると、憂いがなくなることはできそうにもありません。むしろ憂いが深くなるだけです。


 参考文献 
 
 『白磁の人』江宮隆之 河出書房新社。『朝鮮の土となった日本人』高崎宗司 草風館。
 『朝鮮を想う』柳宗悦全集第6巻 筑摩書房。『朝鮮史』武田幸男編 山川出版社。
 『角川日本地名大辞典』角川書店。『観光コースでない韓国』小林慶二 考文研。


政略結婚の中で−李垠と李方子
(2006年12月9日)


2005.7.20の訃報

 ご存知の方もおられると思いますが、2005年7月20日、一つの訃報が各紙一斉に報じられました。

 「李玖(イ・グ、朝鮮の李王家の末裔)氏。韓国の団体、全州(チョンジュ)李氏大同宗約院によると、16日、東京都内のホテルで死去、73歳。死因は心臓麻痺とみられるという。」(05.7.20中日新聞)というものでした。

 李玖氏の遺体は従兄弟で、日ごろから身の回りの世話をしていた梨本さんが18日にホテルを訪ねて遺体を発見したといいいます。変死であったため、日本の警察で司法解剖され、心臓麻痺で死亡と結論づけられました。

 李玖(日本呼称きゅう)氏は李氏朝鮮王朝最後の皇太子李垠(イ・ウン、日本呼称ぎん)と旧皇族梨本宮家から嫁いだ方子妃(イ・パンジャ、日本名まさこ)の次男として生まれました。兄が夭折したため、李王家の直系の継承者でした。その人が、日本のホテルで孤独死を遂げるという寂しい死でした。

 私はこの訃報を読んで、一つの歴史が終わったのだと感じるとともに、自分の意思とは関係なく歴史の流れに奔流された一人の人間の人生の悲哀を感じました。

 李玖氏のことについてはまた後で述べることにします。

 楽善斎(ナクソンジェ)を訪れて

 1994年冬、私は初めてソウルを訪ねました。そのときに、昌徳宮(チャンドッグン)を訪れました。景福宮(キョンボッグン)より、自然が豊かで、落ち着いており私は好きでした。その昌徳宮の中にある楽善斎に来たとき、ガイドさんが「ここがイ・パンジャさんがお住まいになったところですよ」と教えてくれましたが、恥ずかしながら李方子について知らなかったのです。韓国人のガイドさんは日本人だったら、知っていて当然と思って説明してくれたのでしょうが、私が「その方はどんな方ですか」と質問したので、ガイドさんは「日本の皇族から、イ・ウン皇太子に嫁がれた方ですよ。韓国では慈母として尊敬を集めています」と補足してくれました。

 そういえば、何年前だか記憶にないが、韓国皇太子に嫁いだ皇族の女性が亡くなったということが新聞に書かれていたことを思い出しましたが、詳しい内容は覚えていませんでした。日本に帰ってすぐに調べてみました。

日本・朝鮮融合のための政略結婚

 1910(明治43)年、日本は大韓帝国を併合しました。「日韓併合は円満なうちに行われた」という妄言を吐いて、物議をかもし、発言を取り消すという醜態を演じた政治家もいましたが、事実をみれば明らかです。

 自由主義史観(私に言わせれば、国辱史観)の本を読みましたが、「日韓併合は国際法に違反していないし、欧米諸国も承認している」という書き方がしてありました、国際法に違反しなければ植民地支配も正しいと言うのでしょうか。こんな考え方が、若者の中に結構支持を受けているのを知り、ショックを受けています。

 1905年、日本は日露戦争の勝利を背景に第2次日韓協約を締結し、大韓帝国を保護国化します。初代の韓国統監になったのは伊藤博文でした。韓国では反日闘争が起きています。

 そこで、伊藤博文は「李垠皇太子を日本で教育し、両国永遠の礎にする」という計画を持っていました。伊藤博文は明治天皇の許可を得て、この計画を実行します。

 李垠(以後敬称略)は高宗(コジョン)の子で、純宗(スンジョン)(李王朝最後の王)の弟ですが、日本人によって殺された閔妃(ミンビ)の子ではありません。純宗に子どもがいなかったので、皇太子に冊封されていました。

 垠は1907年、11歳の年に「留学」という名目で日本に連れてこられました。養育係りは留学の立案者の伊藤博文でした。来日する際、1年に1度は朝鮮に帰省させるという約束で行われた留学でしたが、約束は守られませんでした。体のいい人質でした。実母厳妃(オムビ)が亡くなった1911年まで帰省は許されませんでした。

 1910年、韓国が併合されると、朝鮮半島も天皇の支配下になりました。そこで、垠は皇太子から王世子に格下げされ、日本の皇族扱いになります。

 垠は陸軍幼年学校、士官学校に進みます。結構厚遇されていたようですが、少年期からの日本留学は彼を「物静かで、忍耐力の強い」性格にしたようです。

 日本は皇民化政策を徹底化しました。創始改名、日本語教育、神社崇拝等様々な方策をとります。一方では、朝鮮民族を懐柔するために、李王家と日本皇族との結婚をすすめます。日鮮融合(この言葉好きではありませんが、歴史用語として使用します)の範を示そうというわけです。

 李王家は日韓併合後、日本の皇族扱いになりましたが、朝鮮では王家として強い影響力を持っていました。李朝皇太子李垠の相手が日本の皇族から選ばれることになりました。

 その相手は皇族梨本宮方子(まさこ)でした。今では昭和天皇の直系が皇族ですが、当時は竹田・賀陽・東久邇・朝香など11家ありました。梨本宮はその一つです。

 方子は父守正、母伊都子の長女として、1901年に生まれました。母の伊都子(いつこ)は佐賀の鍋島公爵家に生まれ、父直大がイタリアのローマ滞在中に生まれたため、伊都子と命名されたといわれています。

 方子は皇太子(昭和天皇)の妃候補の一人でした。ところが、方子は「不妊の体質」と判断され、妃候補から消えます。皇太子の妃選びには山県有朋派と反山県派との暗闘があり、方子はその犠牲になったのだといわれています。

 李垠の妃選びも始まっていましたが、なかなか上手くいきませんでした。そこで、皇太子の妃候補からおろされた方子が浮上しました。母伊都子は宮内大臣から打診があったとき、「まだ学校に通っておりますので、結婚は考えていません」と断るのですが、梨本宮守正が呼ばれ、大正天皇から「お国のため」といわれ、方子と李垠の結婚を命じられます。そのことは方子に知らされませんでした。
軍部や朝鮮総督府では「不妊体質」だから、李王家の血統も耐えるという思惑があったとも言われます。

 1916年8月3日、大磯の別荘で、夏休みを過ごしていた方子は「李王世子の御慶事――梨本宮方子女王とご婚約」という新聞記事で李垠との婚約を知ります。封建時代並みのひどい話です。

 方子は学習院女子部に通う15歳の少女でした。ショックは大きかったようですが、天皇の命令とあらば、従わざるを得ません。方子は「お国のために尽くす覚悟です」と決然と言ったそうですが、物凄い葛藤があったと思われます。祝福され、望んだ婚約ではなかったからです。

 李垠のほうも同じで、日本の皇族との結婚の話があったとき、彼は断ったといわれています。彼には朝鮮で親同士が決めた婚約者がいたのです。彼と同い年の閔甲完姫です。もちろん、二人が納得して決めたのではなく、李王朝の宮廷が古式にのっとり、11歳の李垠の相手に決めたのです。婚約が決められた直後に李垠は日本へ行くわけですから、二人は話したことも会ったこともないという関係でしたが、閔姫は妃になるための教育を受けていましたし、そのための覚悟もできていたようです。

 朝鮮ではいったん太子の妃として選ばれると、破談となっても他家に嫁がず、一生を独身で過ごす慣わしでした。

 李垠と方子の婚約が決まると、閔家は破婚を強く拒みます。総督府は「1年以内に娘を嫁がせない場合、父と娘に重罪を科す」という強権を発動します。これまた、ひどい話です。

 閔姫は上海へ亡命します。ここにも政略結婚の犠牲者がいたのです。

高宗の死と三・一独立運動

 結婚の日は1919 (大正8)年1月25日と決められました。式を4日後に控えた1月21日(死んだのは20日)、高宗の死が報じられます。それは突然の死でした。

 高宗は死の前夜、機嫌よく側近の人々と昔話に興じられ、一同が退いたあと、甘酒(お茶という説もあります)を飲み、就寝しましたが、まもなく激しい腹痛に苦しみ、絶命したといわれています。死因は脳溢血だとされています。

 高宗は閔妃の夫で、李王朝の滅亡の渦中に生き、李朝を立て直そうと努力した人です。
高宗は1907年、ハーグで開かれた平和会議に使者を派遣し、日本の朝鮮進出の非を国際社会に訴えようとしました。この企ては日本の横槍によって失敗しますが、そのため、統監府から、退位を迫られ、息子の純宗に皇帝を譲り、李太王となっていました。

 1919年、ヴェルサイユで講和条約が締結されようとしていました。高宗は「朝鮮の独立」を訴えるために、パリに使者を送る計画を立てていたといわれます。

 それを察知した総督府が侍医安商鎬(アンサンホ)を使って毒殺したことが後になって明らかになりました。高宗の喪が明けるまで、李垠と方子の結婚は延期されました。

 高宗の国葬が3月3日に決まりました。高宗は日本の統治に反対したこと、后の明成皇后(閔妃)が日本軍に殺されたこと、本人が総督府によって毒殺されたこともあり、反日のシンボル的存在でもあり、国民から畏敬されていました。
 
 朝鮮内では、ウィルソンの14か条の中に、民族自決の項目があったため、この際独立を目指そうという運動が計画されていました。2月8日には神田猿楽町にある朝鮮キリスト教青年会館で、「我らはここに我が朝鮮人民の自由民たることを宣言する・・・」という朝鮮独立宣言が発表されました。それは朝鮮での運動と連動していました。

 「独立宣言」は最初、高宗の国葬に地方から沢山の人々がソウルに集まる3月3日にパゴダ公園で発表される予定でしたが、混乱を避けるために、3月1日に、それも公園近くの朝鮮料理店「明月館支店」に変えられました。

 3月1日午後2時、明月館で独立宣言の朗読が行われ、「朝鮮独立万歳」を三唱しました。彼らは総督府に電話をかけ自首したので。総督府からやってきた官憲に逮捕されました。しかし、彼らの予測に反し、運動は民衆に引き継がれました。一人の学生が、パゴダ公園に集まった数千の民衆の前で「独立宣言」を朗読しました。期せずして、民衆の中から「独立万歳(トンニプマンセー)の声が巻き上がりました。民衆は隊伍を組んで町に出ました。市民も行進に加わり、ソウルでは数十万の人がデモに参加しました。その日、ピョンヤンなど6カ所でデモ行進が行われたことから、この運動が組織的であったことがわかります。

 総督府は軍隊を出動させ鎮圧しました。三・一運動における朝鮮人の犠牲者は死者7,600人、負傷者46,000人、逮捕者49,000人(数字は概算)という物凄いものでした。

 この弾圧の中で、柳寛順(ユガンスン)が殺されました。彼女は朝鮮のジャンヌ=ダルクといわれています。彼女は16歳で、名門校梨花学堂(イ・ファハクダン。現梨花女子大)の学生でした。ソウルでデモ行進に加わり、故郷で独立運動を組織し、日本軍に捕まり獄死します。その彼女の殉国の死は朝鮮民衆の魂の叫びであったといわれています。

 「柳寛順像」がソウルの目抜き通りの中心にあります。さらに彼女は切手になっています。

 慶州(キョンジュ)の博物館で、記念切手を発売していたので、「柳寛順の切手はないか」と尋ねたら、売店の女性は「あなたは何故、柳寛順のことを知っているのか、日本人で柳寛順のことを言った人は初めてだ」と驚いていました。

 また、堤岩里(チェアムリ)の虐殺事件も起きています。

 余談になりますが、1994年冬、初めて韓国を訪れたとき、三・一運動の発生の地、パゴダ公園を見なければと思い出かけました。パゴダ公園には三・一運動のレリーフが壁面にかけてあります。それをみていたら、70歳ぐらいのお年寄りが「日本の方ですか」と達者な関西弁で尋ねてきました。「そうです」と答えると、日本の韓国支配の不当性を、ひいては日朝の歴史を1時間以上にわたって話してくれました。周りに多くの韓国の年寄りが私を囲むように集まりました。少し恐怖感を覚えましたが、私が「社会科の教師として、きちんと植民地支配の実態を教えたいと思っている、そのためにソウルに来たのだ」と答えると、「頑張ってください」といわれ、握手をして別れました。次に訪れた1998年には関西弁のお年寄りはいらっしゃいませんでした。お元気なのか気にかかりました。

結婚、そして長男晋の死

 三・一運動が起きたこともあり、李垠と方子の婚約に対して、日本でも韓国でも反対する声が上がりました。梨本宮家には嫌がらせや脅迫の手紙や電話がかなりあったようです。

 かえって、それが二人の絆を強くしたようです。

 結婚式は1920年4月28日に行われました。方子が李垠の待つ麻布鳥居坂の御殿に向かう途中、何者かが馬車をめがけて手榴弾を投げつけました。幸いに不発弾であったため、惨事にはなりませんでした。爆弾を投げたのは、朝鮮人留学生でした。彼は「李殿下や方子妃には恨みはない。二人を強制結婚させた日本の行為が許せない」と警察に語ったそうです。この事件は極秘にされ、新聞報道もされなかった。犯人は禁錮4年の刑を受けました。

 私はこれを知ったとき、現天皇の結婚パレードで馬車に石を投げて捕まった少年のことを思い出しました。

 1921年、二人の間に長男が誕生します。新聞は「ここに日鮮一体の結実をみよ」「旧李王朝29代に当たる日鮮融和のシンボル」と大々的に報道しました。

 「方子が不妊の体質だ」という医師の見立ては外れたわけです。「不妊体質」と判断した医師は解任されました。
長男は晋と名づけられました。

 1922年4月末、李垠一家は純宗に結婚と出産の報告、それに朝鮮式の結婚式をし、朝鮮の人たちに披露するために帰国しました。式も滞りなくすみ、日本への帰国を前日に控えた5月8日、予想だにもしないことが起きました。晋の発病です。必死の看病もむなしく晋は11日の午後、短い生を閉じたのです。

 晋の急死については「日本人の血が入った晋が李王朝を継ぐことを喜ばない」という李王朝の反日派による毒殺という説がありますが、方子は自伝の中で「病死」と書いています。真相はわかりません。

 二人は失意の中で生活します。二人の心に追い討ちをかけるような辛い事件がおきます。1923年、関東大震災がおき、その中で、「不逞鮮人が暴動を起こし、井戸に毒を入れる」という流言蜚語が飛び交い、多くの朝鮮人が虐殺されるという事件です。その数、3,000人とも、5,000人とも言われています。李垠は「何かにつけて朝鮮人が悪いと決めつけてしまうのは実になさけない。不幸な立場にいる朝鮮人を殺して、いったいどうしようというのだろうか。日本人は不当なことをしている」と憤り、悲しんでいましたが、どうすることもできない無力さの中で事態の収まるのを待つしかありませんでした。

 1926年3月、二人は「ヨーロッパ視察」へ行く予定でした。出発の直前、純宗が重態におちいり、旅は延期されました(ヨーロッパ旅行は1927年に実施されます)。4月25日、純宗は亡くなります。日韓併合がなければ李垠は大韓帝国の皇帝になるはずでした。
結婚の前に高宗の死、渡欧の前に純宗の死と二人には何か不運が付き纏っているようです。暗い未来が予感されます。

次男玖の誕生と15年戦争

 二人の間にはなかなか子どもができませんでしたが、1931年待望の子どもが生まれます。その子が冒頭に触れた玖です。方子は玖の誕生に際して「つもりたる 十年のなやみ けふ晴れて 高き産声 聞くぞうれしき」と、喜びとプレッシャーからの解放をうたっています。

 玖が生まれた1931年は満州事変が始まり、日本は果てしない戦争に入っていく年でした。

 陸軍に勤務する李垠も戦争に巻き込まれていきます。彼は宇都宮師団の連隊長として赴任します。ここで、一つの出会いがありました。愛親覚羅溥傑が李垠のいる宇都宮師団に隊付き将校として赴任してきたことです。

 愛親覚羅溥傑は満州皇帝溥儀の弟で、公爵嵯峨家の娘浩(ひろ)と政略結婚させられていました。そのモデルは李垠夫婦でした。愛親覚羅溥傑と浩についても波乱の生涯でした。浩の『流転の王妃の昭和史』(新潮社)を読まれるといいと思います。二組の夫婦はお互いに何を思いながら交流したのでしょう。政略結婚に苦しめられた二組の夫婦が同じ時・場所で生活をしていたというのも歴史の綾といえましょう。

 李垠は中将になり、最後は軍事参議官になります。

敗戦、そして帰国

 1945年、日本は敗戦します。戦後の改革の中で、皇族は直系3家にされ、11家は整理されます。いわゆる臣籍降下です。梨本宮家も李家も廃止され、一般国民とされますが、李垠一家は日本国籍から韓国籍に移されます。収入の途絶えた李垠一家は資産を売ることで生活します。買い物もしたことがない皇族の生活から、すべての身の回りを自分でしなければならなくなった方子はたいへんでしたが、それが一般国民の生活だということを知ることができ、後の生活に役立ちます。

 1948年、 朝鮮半島には二つの国家が成立します。李垠は大韓民国への帰国を希望しますが、大韓民国の大統領李承晩(イスウマン。李王朝と親戚筋に当たります)は冷淡でした。結局、李承晩時代には帰ることができませんでした。

 玖はアメリカへ留学します。李垠と方子も1957年から1958年の約2年間、アメリカで玖ともに生活しますが、帰国直前の3月、垠は脳血栓で倒れます。命には別状がありませんでしたが、左足に後遺症が残りました。

 1961年、垠の病は再発し、寝たっきりになり、聖路加病院に入院しました。

 この年、韓国では朴正熙(パクチョンヒ)がクーデターを起こし軍事政権を確立します。朴は李承晩と違い、李垠の帰国を認めます。しかし、垠の病状は帰国許可の知らせを理解できないほど悪化していました。帰国の準備が始まります。2年後の1963年11月22日、
李垠と方子は故国に帰ります。11歳で本人の意思でなく日本に連れて行かれてから56年目の帰国でした。意識不明の垠はベッドに
寝たまま、ソウルの聖母病院に入院しました。

 「たとえ1歩でも半歩でもいい、殿下の足で故国の土を踏ませたかった」と方子は回顧しています。

 このとき、玖夫妻も韓国に帰ります。玖はアルバイトをしながら生活し、MIT(マサチューセッツ工科大学) を卒業し、ニューヨークの建設会社に勤めます。そこで、ドイツ系(ウクライナ系という説もあります)アメリカ人ジュリア=ミューロックと結婚します。

 帰国後、ソウル大や延世大学等で教えたり、会社を経営したりします。会社の倒産や、妻との離婚などがあり、晩年は日本と韓国を行ったり来たりする生活をし、冒頭の訃報で触れたように亡くなります。
 
 李王家の財産は国家に没収され、生活費が韓国政府から支給されていました。その経費は垠の治療費と生活費に消えてしまいました。

 方子は社会福祉の事業を始めていましたので、その資金を稼ぐために趣味で作っていた七宝焼きや書や絵画を売ったりします。1967年には、障害児の教育機関である明?園(ミョンヒウォン。明?は李垠の雅号)を開き、障害者教育を始めます。
 金婚式の祝賀会が行われた直後の1970年5月1日、李垠は73歳の命を閉じます。歴史に翻弄された一生でした。私は彼の死が新聞で大きく取り扱われたことを覚えています。

 方子は李垠の死後も日本に帰らず、義理の妹徳恵(トックエ)と一緒に楽善斎に住み、福祉活動に邁進します。1972年には水原(スウォン)に精神障害者の施設慈恵学校(チャヘハッキョ)を建設します。1978年には明恵(ミョンヘ)会館を設立します。方子の努力は認められ、「韓国障害児の母」として敬愛される存在になります。

 1989年4月30日、方子は楽善斎で87歳の生涯を終えました。安らかな最後であったと言われています。この年の1月昭和天皇が亡くなっています。天皇の后の候補の一人であった方子が同じ年に亡くなったのも歴史の不思議な縁を感じます。

 5月8日、方子の葬儀は準国葬として、李王朝の礼式で行われました。多くの韓国国民が葬列を見送りました。

 墓は李王家の金谷陵にあり、李垠の横に作られています。墓碑には「愍民 皇太子妃 付左」という文字がある。愍民とは、「一生いばらの道を歩んだ人」という意味があります。

 一度は行ってみたいと思っています。
 
 ついでに、李王家で日本に来た人たちがどうなったか触れておきます。垠の異母妹の徳恵は学習院で学びますが、神経を病みます。それにもかかわらず、旧対馬藩主の宗武志伯爵との結婚が決まります。これも政略結婚でした。徳恵は一女をもうけますが、病気が再発し離婚されます。娘の正恵は大学を出た後結婚しますが、戦後行方不明になります。徳恵は垠より1年前の1962年ソウルに帰りますが、病状は回復しませんでした。徳恵は方子のなくなる9日前に、楽善斎で亡くなります。78歳でした。

 甥にあたる李鍵も華族の娘と政略結婚をさせられました。彼は戦後、日本に帰化し、桃山虔一と名乗り、渋谷でお汁粉屋を開きますが、うまくいかなく離婚します。李鍵の弟は広島で原爆を受け死亡します。「日鮮融和」の名目で行われた政略結婚の内、二つまでが悲劇に終わっています。

 私は方子の生涯を辿ってみて、「悲劇の王妃」という形容がなされていますが、当てはまらないと思っています。皇族の娘としては、差別と偏見の中で生活しなければならなかったという苦しみや悲しみはあったと思いますし、波瀾の人生であったことが否定しませんが、経済的にはずいぶん恵まれていたし、戦後でもアメリカでの生活を援助してくれる人がいたり、十分ではなかったかもしれないが、韓国政府が生活費を保障してくれたりして、戦後の大部分の日本人より恵まれた生活をしていたと思います。韓国での福祉活動でも、瀬島竜三や岸信介などの政財界の支援があり、このHPで最初に紹介した田内千鶴子よりもはるかに恵まれていたと思います。

 私は方子が韓国で福祉事業を行ったのは日本の朝鮮支配に対する贖罪ではなかったかと考えています。

追記

 この文章を書いている最中に、TVドラマで『虹を架ける王妃』という題で、李方子の半生が放映されました。方子を演じたのは菅野美穂、李垠を演じたのは岡田准一です。なかなか好演でした。物語は戦前までの二人を描いたもので、戦後が描かれていなかったのは物足りない気がしました。史実にも忠実で、なかなかよくできていましたが、二人の愛に重点が置かれ、歴史背景、特に日本の朝鮮支配の視点が抜けていたのが残念でした。
 
参考文献

 『流れのままに』李方子 啓佑社。
 『歳月よ王朝よ』李方子 三省堂。
 『日韓皇室秘話 李方子』渡辺みどり 読売新聞社。
 『李朝滅亡』片野次雄 新潮社。
 『観光コースでない韓国』小林慶二 高文研。
 『朝鮮史』武田幸男編 山川出版社。 

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