今、戦後補償を考える

 

 

         −名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟を通して

 

 

 

 

 

                   2007(平成19)年4月

弁護士 岩月浩二


第1章 原告らが強いられた悲劇

1 はじめに

 彼女たちは、70歳を超えた今でも、幼い頃に国民学校(当時の小学校)で習った「皇国臣民の誓詞」(こうこくしんみんのせいし)(1937年10月2日朝鮮半島で発布)を日本語で(そら)じている。

   「私共は、大日本帝国の臣民であります。

        私共は、心を合わせて天皇陛下に忠義をつくします。

        私共は、忍苦鍛錬して立派な強い国民となります。」

 また、彼女たちは、幼い頃、日本で爆発的にヒットした軍歌「露営(ろえい)の歌」(1937年10月)を次のように覚えている(「露営」とは、軍隊が野外で陣を張ること)。

    “勝ってくるぞと勇ましく

     誓って故郷(くに)を出たからは

     手柄立てずに死なりょうか

      死んで還れと励まされ

     明日の命を誰か知る”

 今、その彼女たちは、良心の国と教え込まれた日本の良心の府である裁判所を信じて、少女の頃、強制労働を強いられた被害について、日本国と三菱重工業に対する謝罪と賠償を求めている。

 

2 忘れられた少女たち

 第2次大戦末期、名古屋市南区にある三菱重工業名古屋航空機製作所道徳工場には「朝鮮女子勤労挺身隊」と呼ばれる300人の少女たちが朝鮮から連れてこられて、軍用機生産のために働かされていた。

 この事実は、日朝・日韓の親善と交流を願う市民の、史実発掘に向けた粘り強い努力によって、1987年、戦後40年余りを経て、初めて明らかにされた。中国や韓国の男性の強制連行・強制労働は、早くから知られていたが、強制労働が異国の少女たちに及んでいたことは、知られていなかった。

 そして、未だに彼女たちの悲劇は、ほとんど知られていない。

 

3 植民地支配と皇民化教育

 日本は、1910年から敗戦の1945年まで朝鮮半島を植民地としていた。彼女たちが国民学校に入学したのと前後して、日本は1937年に日中全面戦争に突入し、戦争は泥沼化していく。

 この頃から、日本は、将来的に、朝鮮の人々を兵士や労働力として総動員するために、朝鮮の子どもたちに日本人意識を植え付け「愛国心」を持たせる皇民化政策を本格化させていった。彼女たちが学んだ当時、朝鮮の学校では朝鮮語の使用が禁止されて日本語の使用が強制され、教育勅語の奉読、奉安殿(各学校に作られた天皇の写真を納めた建造物。神聖なものとされ、奉安殿の前を通るときは、最敬礼しなければならなかった)の設置、日の丸掲揚や君が代斉唱、神社参拝、皇居遥拝(ようはい)(遠く皇居の方角を向いて一斉に拝むこと)等が行われた。こうして日本は朝鮮の子どもたちを、天皇を頂点とする日本に対する愛国心を培うための国家神道(天皇を現人神(あらひとがみ)とあがめる国家宗教)へとマインドコントロールしていった。異民族の子どもたちが対象であっただけに、こうした皇民化教育は、日本における以上に徹底して行われたといわれる。

 彼女たちは、全面的な皇民化教育を国民学校入学直後から受けた最初の世代で、結果的に最後の世代となった。彼女たちは「内鮮一体(ないせんいったい)(日本と朝鮮は一体である)」の標語を信じ、日本に対する畏敬と素朴なあこがれを抱いていた。

 

4 強制労働被害

 彼女たちが国民学校高学年になろうとする1941年には、日本は泥沼化した日中戦争からの活路を求めて、太平洋戦争に突入していった。日本国内生産が軍需に集中する中、青壮年の男たちが次々と兵士として召集されたため、国内の労働力は逼迫した。南方諸島が陥落する中、本土空襲の危険が間近に迫り、1944年には、空襲の危険がある都市部では縁故疎開や学童疎開による避難が本格化していく。

 学童疎開が本格化しようとする1944年6月、日本は同年輩の朝鮮の少女であった彼女たちを、空襲が間近に迫る名古屋に連れて来て、軍用機生産工場で働かせた。彼女たちは国民学校6年生在学中か卒業間もない時期であった。

 彼女たちは、選ばれて連れてこられた少女たちだった。

 彼女たちは、尊敬する担任の先生や校長から「日本に行けば、女学校に行ける。働いてお金ももらえる」と、勧誘された。当時、朝鮮の少女たちが上級学校に進学する道は、ほとんど閉ざされていた。そうした朝鮮の少女たちにとって、「日本で女学校に通える」というのは、夢のような誘いかけだった。多くの少女たちが、日本行きを希望した。彼女たちは学業成績も良く、修身(道徳)も優秀で従順な少女たちであったことから、志願者から「選ばれて」日本に連れてこられた(彼女たちの中には、親に日本行きを反対され、辞退を申し出た者もいたが、教師たちから、反対する親は憲兵に逮捕されると言われ、志願を辞退することは許されなかった)。

 成績優秀で性格もよいと思われた少女たちが選ばれたのは、日本の工場で働かせるためには、日本語が堪能で、指示に素直にしたがうことが求められていたからだ。

 こうして、彼女たちは、1944年6月、名古屋市南区道徳にある三菱重工の軍用機生産工場に連れてこられて、約300人の朝鮮の少女たちとともに、働かされた。少女たちは「朝鮮女子勤労挺身隊」と呼ばれた。

 幼い少女たちには、軍需工場の労働は過酷なものだった。労災や病気が続出した。食料も不足し、残飯をあさり、水を飲んで腹を満たす日々が続いた。外出は厳しく制限され、父母への手紙も検閲された。「半島人」と罵倒され、差別にさらされた。少女の中には、辛さを伝えたい一心で、「日本は必ず勝つ」と血文字で書いた手紙を両親に送り、心配した両親が名古屋にかけつけ、ようやく両親との面会を果たした者もあった。

 1944年12月には名古屋市南部を東南海地震が襲った。倒壊した工場の下敷きになって朝鮮の少女の内、6人が亡くなった。引き続く空襲の恐怖にも怯える毎日が続いた。

 日本の敗戦で彼女たちは1945年10月、朝鮮に帰された。約束されていた女学校への通学はおろか賃金が支払われることもなかった。

 

5 思いもよらない誤解と差別

 彼女たちの被害は、帰国後も続いた。

 彼女たちは、思いもかけない誤解と差別にさらされ、『挺身隊』であった過去を知られる不安に怯え続け、ひたすら過去を隠し続けることとなった。

 『挺身隊』とは、韓国では、「日本によって汚された女」とみなされていたからだ。

 日本は、多くの朝鮮の未婚女性を軍「慰安婦」として、戦地へ連れて行った。1932年第一次上海事変当時にすでに、軍慰安所がもうけられ、朝鮮女性が軍「慰安婦」とされていたことがわかっている。日中戦争が全面化した1937年以降、軍慰安所の設置は本格化し、日本軍の駐屯するあらゆる地域に軍慰安所がもうけられ、多くの女性が性的蹂躙(じゅうりん)を受けた。日本軍は兵士に性病が蔓延することを恐れていた。このため貞操観念が強く、性病の恐れが少ない朝鮮女性が多数、軍「慰安婦」とされた。その多くが10代の少女たちであった。貧困に苦しむ女性たちに対して、「いい仕事がある」と騙し、多くは就業詐欺によって軍「慰安婦」とされた。未婚女性が日本によって次々と連れ去られる事態は、朝鮮では「処女供出」と恐れられた。親たちは娘を奪われまいとして、ろくに相手のことも調べず、焦って娘たちを結婚させた。このため当時の朝鮮では、平均結婚年齢10代半ばという早婚傾向が生まれたほどだった。

 軍「慰安婦」の総数は、概数すらいまだにわかっていない。地道な研究によって、探し出すことのできた史料に基づいて推計するしかなく、日本人研究者による推計は3万人から20万人と大きくばらついている。韓国では、朝鮮女性だけでも8万人から20万人と言われている。日本は、敗戦に際して多くの記録を焼却した。朝鮮総督府でも記録を焼く煙が幾日も立ち上っていたと言われるほど記録類の処分は徹底して行われた。

 日本によって連れ去られた少女には、軍「慰安婦」とされた者と勤労挺身隊とされた者がある。しかし、軍「慰安婦」は、多くは就業詐欺によって連れ去られたため、「慰安婦」との言葉が使われることは皆無に近かった。一方で、勤労挺身隊は「内鮮一体の華」と呼ばれ、「朝鮮の少女たちもお国のために懸命に働いている」として忠君愛国の美談として朝鮮でも派手に宣伝され「挺身隊」との言葉は広く知れ渡った。少女たちが相次いで日本に連れ去られた朝鮮では、『挺身隊』は日本によって連れ去られた少女の代名詞になった。

 日本が、朝鮮女子勤労挺身隊を動員するには皇民化教育が成果を挙げるのを待たなければならず、動員は大戦末期となったため結果的に日本各地の軍需工場で働かされた朝鮮少女は概ね4000名にとどまった。他方、軍「慰安婦」とされた朝鮮の少女は、1932年以降、少なくとも何万人かに上っている。日本によって連れ去られた少女の大半は軍「慰安婦」とされたのだ。このため戦後の韓国では、『挺身隊』という言葉は、「日本によって汚された女」を指す言葉として記憶されることになった。

 

6 失われた人生

 彼女たちが帰国したのは60年前だ。結婚して子どもを産み育てるのが女性の本分とされていた。徹底した男系主義の家族制度をとる韓国では、生まれた子どもが夫の子であることは、家門の継承のため決定的に重要なことだった。女性には命に代えても貞操を守ることが求められた。たとえ強姦された場合でも、離婚された。男子が生まれなければ、夫には妾を作ることが許され、妾を作る余裕のない庶民では「シバジ」(息子を産むために、貧しい寡婦(かふ)などを一定期間住まわせ、子どもを産んでしばらく育てたら、幾らかの報酬を与えて帰らせた)と呼ばれる借り腹の習慣も行われた。

 女性にとって貞操こそが最大の美徳であり、「汚れた女性」との烙印は、弄ぶ相手とみなされ、人生を否定されるに等しいことだった。『挺身隊』との烙印を押された彼女たちは軍「慰安婦」とされた女性たちと同様、固く過去を封印して生きるしかなかった。

 原告たちは、勤労挺身隊経験をひた隠しに隠して結婚した。結婚後も日本に行っていた過去が夫に発覚しはしないかと絶えず恐怖に怯えなければならかった。

 しかし、いくら過去を封印しても、いずれ知られてしまう。ほとんどの原告たちは何かのきっかけで、夫に過去を知られ、夫に罵倒され、暴力を振るわれた。「工場で働いていた」と主張しても、信用されなかった。

 原告たちの夫は外に女性を作り、家を出て行き、家庭は崩壊した。他の女性との間でできた子どもの養育を押しつけられた原告もいた。

 『挺身隊』との烙印は、帰国後の彼女たちの人生を狂わせた。多くの原告が、この烙印付のために苦しみの中、報われることのない不遇な人生を終えようとしている。

 もし勤労挺身隊として日本によって連れ去られることがなければ、少女たちには別の幸せな人生が存在し得た。幼いときに騙されて勤労挺身隊に志願させられたことがその後の一生を狂わせたのだ。

※ ここでは、軍「慰安婦」被害者らや勤労挺身隊被害者らが当時の韓国の社会状況の中で置かれた状況について、主として韓国の女性学の成果に基づいて述べた。韓国社会が日本社会に比べてより女性差別的であったとする趣旨ではないことを断っておく。日本の近代化に伴って万世一系の天皇を頂点として組織化された日本の「家」制度も、「家」の跡継ぎが夫の子であることを保証するため妻にのみ姦通罪の処罰をもって貞操を求め、不貞も妻が犯した場合に限って離婚原因とされた。妻に跡継ぎができなければ、夫は「妾」を作ることが許され、「妾」にも貞操義務が課せられた。妻は婚姻によって権利能力が制限され(妻が自分の財産を処分するには夫の同意が必要とされた。つまり妻の固有財産も嫁ぎ先の「家」の支配に置かれた)、離婚すれば子どもの親権は原則として戸主たる夫にあるものとされた(子どもの幸福より「家」の跡継ぎを残すことが重要であった)。また、国家が売買春を公認する公娼制は日本に独特の制度であったが、日本は公娼制を朝鮮に移植した。公娼制の移植は朝鮮において「汚れた女性」と「貞淑な女性」という女性の二分化の観念を一般化させるのに影響した(日本において女性の身体に対する自己決定権が如何に権力的に侵害されてきたかについては、若尾典子「女性の身体と人権…性的自己決定権の歩み」学陽書房2005参照)。また、日本においても女性の本分は子を産み育てることにあるとされていたことは、昭和40年代まで女子結婚退職制や女子若年定年制(たとえば30歳定年制)がごく一般的であったことからも容易に知ることができる。「行かず後家」や「オールドミス」と言った蔑称も一般的な言葉であった。

 

第2章 日韓の戦後補償とは何を意味したか

1 戦後補償の壁

 原告たちは、強制労働と失われた人生に対する謝罪と賠償を求めて1999年3月1日、提訴した。2005年2月24日になされた判決は、韓国と日本との条約(日韓請求権協定)によって、原告たちの請求権は失われたとして訴えを斥けるものであった。

 冷戦崩壊後、100件近くに及ぶ海外の被害者を原告とする「戦後補償裁判」と呼ばれる訴訟が提起された。これらの裁判は多くの法律上の壁に直面する困難な裁判であった。しかし、いくつかの良心的な裁判では、国家無答責(国家は不法行為に対して責任を負うことはないとする戦前の法理)の壁、時間の壁(除斥(じょせき)期間。加害行為から20年経つと、賠償義務は自動的に消滅する法理)を道理によって乗り越えて被害者の勝訴を導いていた。最後に残されたのが、日本が、各国と国交を回復するに際して締結した条約(サンフランシスコ講和条約、日華条約、日韓請求権協定)による国家間合意による政治決着の壁であった。

 この政治決着の壁の意味を考えるためには、被害国に対する日本の戦後賠償がどのようになされたかを振り返っておく必要がある。このことは何故、1990年代に入って初めてアジア諸国民の戦後補償訴訟が相次いで起こされるようになったのかについても回答を与えるものだ。

 

2 朝鮮半島の分断・朝鮮戦争

 第二次大戦後、日本の植民地支配から解放された朝鮮の人々の祖国独立への強い希望は、朝鮮半島を38度線で分割占領した米ソの思惑によって、早々と裏切られた。独立への願いに基づいて各地で祖国再建に向けて作られた自治的な諸組織・諸団体は、米ソの介入を受けた。とくに南部では、統一し独立した祖国の再建を望む人びとの運動は米軍政によって苛烈な弾圧を受けた。体制を異にする米ソの利害対立が深まる中、1948年8月には大韓民国が、10月には朝鮮民主主義人民共和国が相次いで樹立され、朝鮮半島は分断された。

 1950年6月、朝鮮戦争が勃発した。1953年7月、休戦協定が結ばれるまで戦況は二転三転した。戦線は朝鮮半島全土を縦断する激しいもので、おびただしい犠牲者を出した。およそ300万(ブリタニカ世界大百科事典による)の人びとが死亡した朝鮮戦争は、第二次世界大戦後、現在まで世界最大の犠牲者を出した戦争である。

 朝鮮半島は38度線による分断が固定化され、戦後世界を長く覆った東西冷戦の最前線として厳しい緊張を強いられ続けた。

 

3 占領軍の対日政策

 1945年の敗戦から1952年のサンフランシスコ講和条約発効に至るまで、日本は、連合国軍(実態は太平洋戦線を制した米軍)による占領下に置かれた。占領当初、占領軍は、日本の非軍事化と民主化を基本方針とした。軍隊は解体され、軍国主義を主導した人びとが公職から追放された。軍需産業で利益を挙げた財閥が解体され、農地解放が行われ、女性参政権が認められた。1946年11月には、平和主義と基本的人権の尊重、国民主権を基本原理とした日本国憲法が成立した。

 東西陣営(社会主義諸国と資本主義諸国)の地球規模での対立の激化と1950年6月の朝鮮戦争の勃発とともに占領政策は大きく転換する。朝鮮に出動した在日米軍の穴埋めをする軍隊が必要になり、1950年7月、占領軍の要請により、自衛隊の前身である「警察予備隊」が作られた。その後「警察予備隊」は「保安隊」に名称変更され、1954年には「自衛隊」になった。自衛隊は、その前身から、アメリカから武器の提供を受け、米軍軍事顧問団による訓練を受けた米軍を助けるための軍隊であった。また、サンフランシスコ講和条約の発効に前後して、吉田首相とアメリカ政府との間では、日本の軍事力は有事の際には、米軍の指揮下に入るとの密約がなされたといわれる。

 日本は朝鮮戦争に出撃する米軍の重要な後方基地となっただけでなく、補給基地としても重要だった。米軍の必要とする物資は、日本企業が受注し、「朝鮮特需」に沸いた。ピーク時には、日本の輸出総額の6割が「朝鮮特需」関係であった。「朝鮮特需」は、戦争で壊滅した日本の産業復興の大きな契機となった。

 東西対立が激化する中、アメリカにとって、日本は手放すことのできない軍事拠点となった。日本に空軍基地を置けば、ソ連・中国からベトナムまで爆撃機の射程範囲に入れることができる。

 

4 米軍占領からの独立に当たって戦争賠償はどのように扱われたか

 日本は、1951年9月サンフランシスコ講和条約の調印、翌1952年4月の講和条約の発効により、独立した。同時に日本は、アメリカと安全保障条約を結び、米軍は期限や制限なく日本全土を基地として使用することができるようになった。「占領軍」は「在日米軍」と名前を変えただけで日本に駐留を続けた。また、沖縄は日本から切り離され、引き続き米軍政下に置かれることになった。

 一方で、アメリカにとって、米軍基地を置く日本には補給基地としても機能することが求められた。そのためには、日本の産業復興が必要であった。日本が多額の戦争賠償(戦争によって相手国に与えた損害の賠償)を行うことによって、経済が疲弊することは避けなければならなかった。アメリカは、講和条約に交戦国の賠償請求権を放棄させる条項を盛り込んだ。こうした条項を盛り込むためアメリカは東南アジアを初めとする各国に特使を送り、賠償請求を放棄するように説得した。しかし、日本軍によって占領され甚大な被害を受けたアジア諸国の中には、アメリカも説得しきれない国が残った。インドやビルマは、講和条約締結のための会議に欠席し、会議に出席したフィリピンと南ベトナムは賠償請求権を放棄せず、インドネシアは国内の反対のため講和条約を批准しなかった。

 その他、日本に米軍基地を残すことに反対するソ連などの社会主義諸国は講和条約に参加せず、中国は講和会議へ招待されなかった。韓国・北朝鮮は、植民地であって交戦国ではないとして、会議への参加が認められず、賠償問題は当事国間における取り決めに任されることになった。

 サンフランシスコ講和条約による賠償は、日本を補給基地として位置づけるアメリカの思惑により、日本の産業復興を助けるため、役務賠償(被害国が日本に原料を提供し日本が加工する形態)に限定された。こうした枠組みのため、被害国に対する賠償は、役務賠償の形態をとることになった。その結果、日本政府が政府の負担で日立や東芝、三菱といった企業に製品の製造を注文して発電機等を製造させて被害国に無償で輸出し、被害国が発電所を建設するといったことが「賠償」の実行として行われた。「賠償」関係の事業で、1950年代の後半、日本の重電機輸出は急増した。「賠償」自体が、日本の産業復興に役立つ方法が採られたのである。

 日本は、全土に米軍基地を置くことを認め、後方補給基地となることと引き替えに、戦争賠償を大幅に軽減され、経済復興の基盤を与えられた。

 

5 日韓請求権協定

 サンフランシスコ講和条約で特別取り決めの対象とされた日本と韓国の間の「請求権」問題に関する日韓会談は1952年から始められ、中断を繰り返しながら、1965年6月、国交正常化を合意する日韓基本条約とともに日韓請求権協定が締結された。

 日韓会談では、韓国側は、過去の植民地支配を清算するための「請求権」を主張し、日本側は、植民地支配に対する責任を否定し、あくまでも経済協力による解決を主張した。結局、植民地支配の責任については曖昧にされたまま、日本が韓国に対して無償3億ドル、有償2億ドルの物品・役務を提供することで(日本は、5億ドルに相当する物品・役務を提供し、3億ドル分については返還を求めず、2億ドル分については長期低金利の貸付として返済を受ける)、「請求権」問題は解決したものとする政治決着がなされた。

 難航していた日韓会談がこの時期に急速に妥結した背景には、ソ連や中国の援助で北朝鮮が経済成長を続けており、これに対抗して当時の朴政権も1962年を初年度とすると第1次5カ年計画の資金を必要としていたこと、また、ベトナム戦争が激化し始める中で、アメリカは韓国軍のベトナム派兵を強く要請していて、その代償として日本からの資金援助を求めていたことなどがあった。

 経済協力の大半は、農林水産・鉱工業の振興や、道路・港湾・水道・ダムといった社会資本の充実のために使われた。経済協力は物品・役務の提供により行われることとなったので、これらの事業は日本企業が受注し、政府の支出が日本企業に還元される公共事業の様相を呈した。日韓請求権協定による経済協力は日本企業にとって利益をもたらすとともに、韓国へ展開する足がかりを提供した。韓国の重工業化を象徴する浦項(ボハン)総合製鉄所の建設は、1億2000万ドルをかけた一大プロジェクトであったが、この事業は富士製鉄、八幡製鉄、日本鋼管が受注している。

 請求権協定による経済協力が、韓国政府が「請求権」として掲げた植民地支配や戦争の被害者らの救済に回されることは皆無に近かったのである。

 

6 政治決着の壁に阻まれる被害者

 韓国政府は、経済協力資金の一部を植民地支配被害者の補償に充てたが、支給対象者は戦死者等(日本軍の軍人・軍属、日本に徴用された労務者で1945年8月15日以前に死亡した者)の遺族に限られ、また補償額も低額であり、11ヶ月以内に申告しないと補償を得られない時限立法であった上、実施上の不備もあった。これによって補償を受けた遺族は、8552名に止まり、名目的な補償がなされたに過ぎなかった。生存被害者はもともと補償対象に含まれていなかった。

 朴政権は軍事クーデターによって、政権を掌握した軍事独裁政権であり、日韓条約に反対する国民の運動を弾圧して日韓条約を締結した。その後も、日本に対して補償を求めようとする遺族らの活動を監視、弾圧し続け、被害者らは、戦後補償を求める活動をすることすらできない状況が続いた。

 被害者らが声を上げることができるようになったのは、1987年に軍事独裁政権が倒された後であった。90年代に入って、次々と戦後補償を求める裁判が提起されるようになったのは、冷戦構造崩壊に伴う民主化を待たなければならなかったからである。

 こうしてようやく日本国政府や強制労働をさせた企業に対する責任追及を日本の裁判所に対して求めた被害者らに立ちはだかったのは、重い政治決着の壁であった。

 戦前、日本という国家によって少女時代を踏みにじられた原告たちは、戦後は韓国政府が賠償請求権を放棄したとする国家の行為によって踏みにじられている。原告たちの人生は、終始、国家という巨大な力に翻弄されつづけた人生であった。

 高等裁判所での結審法廷において、ある遺族原告は次のように日本語で語った。

「提訴以来、私はいろいろなことを考えて、夜明け方まで眠れない時がしばしばあります。拙い頭ですが、ついつい考え込んでしまうのです。

 国家とは、個人とは、人間の尊厳とは、民族とは、歴史とは、そして法とは、一体何なのだろうかと。(中略)

 こんな明白な事実一つ、こんなにも難しい裁判で争わなければならない。人間の浅はかさと狡猾さを思い知らされるのです。」

 原告らの問いかけは、あまりにも重い。

 そして、老境にある被害者らにとって、残された時間は限られている。

 

7 置き去りにされた『挺身隊』被害者

 日韓請求権協定では、日本政府も韓国政府も女性の被害者は、想定していなかったといってよい。

 男性中心主義的な考え方が支配する文化圏では(日本や韓国などの東アジア諸国に限らず、欧米諸国でも男性中心主義の支配が根強いことは女性学の研究者の間では広く受け入れられた認識である)、女性が権利の主体として立ち現れるのには、多くの抵抗を伴った。とくに性暴力の問題は男性中心主義的な思考のもとでは極めてデリケートな問題として隠蔽・抑圧される傾向が顕著であった。このため多くの国で、性暴力が女性に対する人権侵害の問題としてとらえられるようになるには女性による自覚的な運動や告発が必要であった。

 韓国では、90年代に進行する民主化と、性暴力を女性の人権侵害として告発する女性運動の進展によって、軍「慰安婦」被害者らが、初めて被害を語り始め、日本軍による性蹂躙が初めて女性の被害として認識される基盤が生まれた。軍「慰安婦」被害については、ILO(国際労働機関)や国連人権委員会でも取り上げられ、日本政府に対する勧告等が繰り返されるようになった。

 一方、同じく『挺身隊』と認識されながら、少女時代に強制労働被害を受け、その後の人生を失った勤労挺身隊被害者らは、いまだに軍「慰安婦」と区別されず、『挺身隊』との烙印だけを受け、ILO条約が禁止する強制労働被害者として認知されていない。

 『挺身隊』が「日本によって汚された女性」との烙印を意味する言葉として韓国社会に定着したのは、日本政府や企業が、軍「慰安婦」被害や勤労挺身隊被害の実態や真相を明確にし、これに謝罪するという条理上求められる加害者としての責任を怠ってきたことが強く影響している。

 

第3章 むすび 今、改めて戦後補償を問うことの意味

 前章で述べた通り戦後処理のあり方は、多くの問題をはらんでいた。戦後補償との関係で概括すれば、ざっと以下のような点を指摘することができよう。

 第1に、日本による戦争賠償は仮に支払われたとしても、被害者の手に渡ることはなく、被害者は救済されないまま置き去りにされたという厳然たる事実である。そもそも物品・役務の提供という戦争賠償のあり方自体が、被害者個人に対する補償を排除する国家間の利害の調整でしかあり得なかった。この点、ドイツの戦後処理が被害者個人に対する補償の観点に立って被害者個人に救済が行き届くような仕組みを伴ってなされてきたのと対照的である。戦後補償裁判は何よりも救済されていない被害者の被害回復を目的とする。

 第2に、戦後処理をアメリカに任せてきた結果、日本自身による過去の戦争の真相解明や戦争責任の明確化がなされないまま、現在に至っていることである。このため、私たちは、過去の戦争を日本の独立を守るためにやむを得なかった戦争であり、アジア解放のための戦いであったと肯定しようとする衝動や、軍「慰安婦」や南京虐殺などの過去の過ちをなかったことにしようとする衝動、そして国家に服従し、その是非を問わず、国家の犠牲になることを美化する「愛国心」の誘惑を克服することができていない。直面した被害者の訴えに答えることは、過去の戦争被害の真相を解明し、わが国の戦争責任を明らかにして、再び同じ過ちを繰り返さないようにするために避けることのできない課題だ。

 第3に、戦後処理が、終始アメリカの思惑に支配されて展開されたことから、日本のあり方が、アメリカの世界戦略と分かちがたく結びついてきたことである。アメリカに対する追随は、近時ますます深まっているように思われる。わが国の自立性を回復する上でも、アメリカに依存した戦後処理を脱して、改めて戦争賠償の中には被害者個人に対する補償を含まなければならないという原点に立ち返る必要がある。

 第4に、被害者に対する個人補償の観点を欠いた戦後処理は、真の意味での近隣諸国との和解をもたらすものではなかった。このため、近隣アジア諸国との信頼関係は、極めて脆弱なものとなっている。被害者個人に対する補償は、アジア諸国との揺るぎない信頼関係を確立する上で、避けて通れない課題である。

 戦後補償は、被害者の尊厳を回復することを目的とする。同時に、21世紀を迎え、幾重にもゆがんだわが国のあり方を正す課題でもある。

 そして、国家利害に翻弄されない個人の尊厳の地平を確立するための人類史